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2020/08/31

子供の素朴な疑問に答える。アルファベット編・研妻哲学231

子供からの質問

 

アルファベットに興味を持ったわが子


ある日こんな質問をされた

「Aはどうして このかたちなの?」

アルファベットのかたちの成り立ちが
気になるらしい

一昔前なら分厚い辞書や辞典を
引っ張り出して説明したかもしれないが
今はインターネットがある

早速、検索すると
答えがいくつかでてきた

どうやらAは
ウシの頭のかたちが
もとになっているようだ

他のアルファベットも探すと
たくさんでてくる

けれども
アルファベットの成り立ちを
入り口として
ラテン語やヘブライ語に
興味を広げ
宗教にも繋がっていくところまで
網羅されている情報源は
なかなか見つからない

これらの内容が詰まった
子供向けの本があったらいいなと
次は図書館の蔵書を検索してみる

断片的に情報は拾えるけれど
自分の広げたい方向へ
視野を広げていくのは
人の役割なのだろうと思わされる

2020年8月31日、月曜日の記録


*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



子供の興味の繋げ方は、大人の仕事の繋ぎ方に似ているかもしれない





2020/08/30

引っ越し先に馴染んできたと思う瞬間・研妻哲学230

新しい環境に馴染むとき


引っ越しで
知り合いがひとりもいない土地に
住むことになった

必要最低限の家具家電をそろえて
転入の手続きをおえる

新しく住むところが
どんな場所なのか
近所を散策する

どこに行けば
何が手に入るのかを
確認する

近所をひたすら歩き回る

声をかけてくる
知り合いは誰もいない

それが普通だった

けれどもある日突然
近所を歩いていると
声をかけられるようになる
挨拶の声が聞こえるようになる

同じ幼稚園のママだったり
家が近いおばあさんだったり
知り合いという
挨拶をする相手の存在に
気づかされるようになる

そんなとき
第一段階を通過したような
この土地に馴染んできたような
感覚に浸る

2020年8月30日、日曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



変化の始まりはささやかな出来事なのかもしれない








2020/08/29

コロナ禍の日本の幼稚園生活の変化・研妻哲学229

幼稚園生活の変化


夏休みがあけて
慌ただしい朝が戻ってきた

コロナ前と違うのは
やはりマスク

最近は外遊びでマスクを
はずすことがあるけれど
登園時にはつけることになっている

次に家庭で子供の検温をして
記録シートに記入する
という新しい
やるべきことが増えたこと

さらに子供たちが休憩時間に
飲むお茶は
先生が用意して順番にそそいで
みんな一緒に飲むのではなく
各自で水筒を持参するようになった

逆に
やらなくてよくなったこともある

たとえば幼稚園の制服
着る必要がなくなった

春用と冬用、ふたつある
制帽もかぶらない

登園後に保育室で
子供たちが制服から体操服に
着替える際の
密を避けるため
コロナ禍では
体操服で登園することが許されている

これにより
今年から入園した年小クラスは
制服を着たのは
入園式の1日だけになる

そのうち幼稚園の制服が
レンタル式になりそうな着用頻度

夏といえばプールだったけれど
幼稚園から大きなプールは
姿を消した

水着もプールバッグも不要になった

春の外出自粛で子供たちの
検診がすべてストップしていたが
秋から再開することが決まった

来月から順次
歯科検診や耳鼻科検診が
再開するようだ

それに秋といえば
運動会だったけれど
今年は中止が決定している

家族が見に行く
発表会参観日もなくなった

代わりに普段の様子を
密にならずに
見学に行ける日が
数日間、指定されているが
参加するかは任意

幼稚園のバザーといえば
進級後に必要なアイテムが
お得に手に入ることで
毎年人気なようだけれど
今年は開催しないらしい

それに加えて
卒園アルバム用の写真撮影に
苦戦している

園児はほとんどの時間を
マスク姿で過ごすため
幼稚園のカメラマンが
撮影しても
表情がよくわからない

特にクラスのカラー帽子をかぶって
口元がマスクで隠れていると
髪型や体型が似ているお友達と
自分の子供を見分けるのが難しい

保護者が保育室に入ることは
禁止とまではいかないが
普段は入らないことになった

特別なお世話が必要な場合や
面談を除いて
保育室に入らない生活様式になったため
例年なら新しいクラスの
保護者が集まる学級懇談会もない

そのため同じクラスでも
わりとお互いを知らない保護者が
増えた印象をもつ

家庭訪問は任意となったが
コロナ禍では先生も来にくいだろうと
保護者側が気をつかって
断る家庭が大半をしめる

お迎えのときには
園児と親が列をつくって
先生の話を聞く時間がなくなった

帰りの会と言うのだろうか

小さい子供と一緒に
集団で待つことは結構大変だったので
なくなって助かる面もある

新任の先生方は
何が普通かを知らないまま
新しい幼稚園生活様式に突入している

幼稚園の様々な習わしが
削ぎ落とされた

2020年8月29日、土曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



普通でいることは、案外難しいのかもしれない








2020/08/28

引っ越しばかりの結婚生活から得たもの・研妻哲学228

引っ越し多めの結婚生活


引っ越しが多い
転勤族のような生活が続く

実際は転勤族とは少し
異なる部分がある

転勤は雇用主が変わらない

たとえば同じ会社の中での
部署異動や店舗の移動などに
伴う引っ越しである場合が多い

ところが
任期付き研究者の場合は
ひとつの契約が終了したら
また次の雇用主を探さなければならない

離職と着任の繰り返し

転勤というより
転職という言葉の方があう

引っ越しを伴う
転職ばかりを繰り返す
結婚生活

受け入れ先が
どこで見つかるかはわからない

見つからない場合も想定しなくてはならない

引っ越す度に
住む場所は大きく変わってきた

引っ越す度に
前に住んでいた場所が恋しくなる

多少、気持ちに強弱はつくものの
それなりに慣れ親しんだ環境は
やはり恋しくなるもの

その住んでいた当時は
環境が違いすぎて
辛い毎日だと思っていても
次の新しい場所に移ると
前の辛い毎日を過ごした場所が
もう戻って来ない愛しい環境だと感じる

最近おもうのは
どこに住んでいても
そこが一番だと思って過ごすことが
最善なのではないかということ

今おかれている環境が
最良の場所だと思って過ごす心境を得た

2020年8月28日、金曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



そもそも変化しない環境はない、と心得ておくべきかもしれない





2020/08/27

記録に残らない親子の140時間・研妻哲学227

未入園・未就学時期の子育て 


約170日、140時間


1年365日のうち
上の子が幼稚園に通う日数は
約170日間とされている

今年は新型コロナウイルスの影響で
これよりも減るかもしれないが
基本的にはこの数字

ということは
年間約170日間
送り迎えをすることになる

園バスがないところに
通っているので
行きも帰りも親と一緒

わが子の場合
大人なら10分もかからない道のりを
子供の足で2倍、3倍の
時間をかけて通っている

片道だいたい25分とすると
往復で50分になり
170日間つづけると
1年間で8500分
140時間以上を費やす計算になる

この送り迎えは
記録に残らない親子の時間といえる

右手で上の子と手をつなぎ
左手で下の子のベビーカーを
おしながら歩く姿や
親子の会話の内容は
記録に残らない

慌ただしい送り迎えの様子を
写真におさめることもなければ
成長の記録として動画を
撮影することもない

下の子はまだ記憶が
定着しない年齢なので
今のところは
母親の私と
幼稚園に通うわが子だけが
共有している時間

夏は強い日差しをあびながら
保冷剤を首に巻いて歩く

雨の日は
レインコートを着ていても
濡れてしまうが
自分の傘はささない方が
子供のお世話をしやすい

冬は風邪をひいた下の子を
出勤前の夫に預けて
早朝の臨時保育を利用させてもらい
上の子を登園させる

天気がよくて
心に余裕がある日は
電信柱の本数を数えたり
看板の文字を読み上げたり
虫を追ったり
雑草を摘んだりして歩く

途中で何度か立ち止まるけれど
とにかく歩く
ひたすら歩く

一歩ずつ進まなければ
幼稚園にも
家にもたどり着けない

一歩一歩の積み重ねは
人生にも重なる

いたって普通のことだけれど
それなりに気力と体力が必要

これを年間170日、140時間
繰り返す

親子で体力づくりはできているだろう

しかし
私は時間を無駄にしてないだろうか

この時間をもっと有意義なものに
できないだろうかと考える

2020年8月27日、木曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



子供の成長の記録には、記録に残らない親子の時間がつきものかもしれない





2020/08/26

母親の時間と子供の家庭学習・研妻哲学226

家庭学習


未入園児の家庭学習は
母親がどれだけ時間をかけられるかが
ポイントになってくるようだ

幼い子供に教える時間と
母親自身の時間を
天秤にかける人もいるのではないだろうか

母親だけでなく
父親も子供の家庭学習に
協力的な場合は
とても恵まれている

けれども教え方ひとつで
子供のモチベーションが左右されるので
両親がみっちり注力する場合は
それなりに気配りも大事になるらしい

どうしてこういった話題を
選んだかというと

夏休みがあけて
久しぶりに会った幼稚園のママとの
雑談の中で
わが家の未入園児が
プレ園児になる日が
思っていたより
近いことがわかったから

未入園、未就学という時間は
もう戻って来ない
かけがえのない時間だと悟った

ちょうど今は
子供とたっぷり一緒に過ごせる
環境におかれている

母親自身の時間も多少は確保しながら
子供の家庭学習、家庭教育を
見直していきたい

2020年8月26日、水曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



雑談から得るものは大きいかもしれない






2020/08/25

乳幼児育児にどっぷり浸かって思うこと・研妻哲学225

乳幼児育児

まず前提として
子供たちの
花が咲いたような笑顔をみると
心が洗われて優しい気持ちになる

基本的に
子供と一緒に過ごすことが
好きなタイプの私

けれども時に
激しく
騒がしく
泣き叫ばれると
そんな前提が
吹っ飛んでしまいそうに
なることがある

可愛いわが子が
モンスター化して
どうにも手がつけられない状態が
訪れると、限界が視界にちらつく

こんなときは
たいてい
フルタイムの仕事をしていたら
どうなっていただろうと考える

今はお互いの実家から
離れて暮らしているため
子供の急な体調不良にも
きちんと対応できるようにと
夫が働いてくれている分
私は仕事をセーブしているような状況

もしかしたら
育児のストレスを仕事で解消して
仕事のストレスを育児で解消することも
できたのではないかと思えてくる

これはあくまでも理想論であることを
肌で感じるように頭では理解している

実際に長時間働くとなれば
また違った問題がでてくるはずだと
認識している

たまたま今回の波が
大きかっただけのこと

上下に
左右に
バランスを保ちながら
日々、手探り育児が続く

2020年8月25日、火曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



完璧な人間がいないように、完璧なライフスタイルは存在しないのかもしれない





2020/08/24

短縮夏休み終了と始業式・研妻哲学224

子供の夏休み終了、そして始業式


はじめての短さだった
短縮夏休みが
いよいよおわりを迎え
2学期の始業式がやって来た

それでもわが子にとっては
長い夏休みだったらしい

早くお友達と遊びたい
という理由で
夏休みがおわるのを
心待ちにしていた

親の私は
残暑が残る厳しい日差しの中
また送り迎えが再開すると思うと
手放しでは喜べないけれど
子供の楽しそうな様子を見ると
心が解き放たれる思いである

当初、今年の夏は
もっと暑さで
バテバテになるのではないかと
腹をくくっていた

ところが
梅雨が長引いた分
送り迎えへの影響は
思っていたより少なく済んだ

それで
ホッとしていたのもつかの間

残暑の存在をすっかり忘れていたので
今になって内心に焦りが見え隠れする

2020年8月24日、月曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



流行ファッションや歴史が繰り返すように、生活は繰り返しなのかもしれない





2020/08/23

日本のドイツ化。増税から銀行口座の維持費まで・研妻哲学223

日本がドイツ化? 


日本の過ごしやすい時期を
ドイツで過ごした気がしてならない


というのも
帰国したら
かつての日本とは
だいぶ違っていた

増税を筆頭に
軽減税率が始まり
新型コロナの影響が続く中
レジ袋が有料化され
豪雨にもみまわれる

私のよく知る日本は
どこへ行ったのだろうか

欧州よりもはるかに低い税率で
買い物をすれば
レジ袋や素敵なショップバッグが
もれなくついてくるのは
すっかり昔の日本になってしまった

今はエコバッグを忘れると
日本でも
たちまち損した気分になる

ドイツと同じ点は
軽減税率にとどまらず
今度は銀行口座の維持費まで
導入するか議論されているらしい

これは銀行の口座を持っているかぎり
毎月いくらかの手数料を
利用者が銀行へ支払う義務のこと

わが家のドイツの銀行口座は
今でも毎月千円くらいの金額が
口座を維持している手数料として
銀行側から自動的に引き落とされている

日本では利用者の
反対意見が多いので
当面の間
導入される心配は必要ないと
報じられているが
経営状況次第なところがあり
遠い将来はどうなるかわからない

もともとドイツの銀行には
通帳がなかったが
日本も通帳を
使わなくなるかもしれない

これらに関して
私の狭い視野の小窓からは
日本がどんどん
ドイツ化しているようにも見える

ドイツまで行かなくても
軽減税率やエコバッグ生活といった
ドイツ的生活が手に入った日本生活

2020年8月23日、日曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


しばらくの間、日本にいてもドイツのような生活ができるかもしれない





2020/08/22

研妻哲学222・素朴な研究者夫と子供と結婚生活

研究者夫との結婚生活

近場への家族旅行をおえた後の
この一週間は
修行のような日々だった

夫が仕事をしている日中は
いわゆるワンオペ育児状態で
ひとりで子供のお世話をする日々

朝ごはんの支度から始まり
お昼ごはんを食べ終えたと思おうと
もう夕食の準備の時間になっていたりする

下の子はまだひとりでは
上手に食べられない

放っておくと遊びだしてしまう

自分の食事は
手の届かないところにおいて
お腹を空かせた親鳥が
小鳥たちにエサを分け与えるように
子供の口にスプーンを運ぶ

そんな修行を5日間続けた

こういう日々が永遠と
続くような気がしていたけれど
再び訪れた週末

キッチンで
夫が料理をつくっている

リビングルームで
子供たちが楽しそうに遊んでいる

ダイニングテーブルで
温かいお茶を飲んでいる私

これ以上なにを望もう

海外で帯同生活が始まった頃
失意のどん底にいた私に
教えてあげたい未来にたどり着いた


2020年8月22日、土曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



何気ない結婚生活のワンシーンは、愛された証なのかもしれない



失意のどん底にいる自分を救うのは、未来の自分かもしれない





2020/08/21

研妻哲学221・ドイツ語あるある?「止まって」と「トマト」を間違えて

ドイツ語あるあるか


夏休みの思い出に
家族で
日帰りできる距離にある観光地を
旅したとき

昔ながらの商店街で
その場ですぐに食べられる
おやつを子供に買い与えて
歩きながら口に運んでいた

ある小さな土産物屋の前を通ったとき
着物を着た上品な淑女から
声をかけられた

「トマト食べていただけませんか」

目が点になりながらも
状況をなんとか把握しようと
目と頭をフル回転させる

店先にはトマトはもちろん
食べ物は置かれていない

着物の女性の立ち振る舞いから
トマトでお客を釣るような
お店には到底おもえないけれど
そういうお店なのだろうか

ひとまずトマトをくれようとする
その行為や気持ちに対して
お礼を言うことにした

「あ、ありがとうございます」
と一言だけ返して
その場を歩いて通り過ぎた

そして
少し前を歩いていた夫の
ところまでたどり着くと

早速やりとりを伝えた

「さっきトマト
食べていただけませんかって
急に声をかけられたの」

「え?トマト?どういうことだろう」

夫婦そろって
そのやりとりを疑問に思いながら
商店街を進んでいく

何軒かお店を通りすぎたあと
汗だくの夫が立ち止まって振り返り
私に話しかけてきた

「止まって食べていただけませんか
ってことじゃない?」

「!!!たしかに!!!」

わが子はまだ食べていた

どうやらこの商店街では
買ったらその場で
食べきってから
移動するように
呼びかけているようだ

そうとわかってから
すぐに立ち止まり
ここまで気づかなかったことを
夫婦で反省

すると止まった場所の
すぐ目の前にあるお店の店主が
優しく声をかけてくれた

「食べ終わったゴミは
このカウンターに置いていっていいよ
それと、この椅子つかって」

自分のお店のことだけを
考えるのではなく
商店街全体を考えた上での
店主の発言に感銘を受けると同時に
商店街の横の繋がりの強さを感じた

それにしても
「止まって」と「トマト」を
間違えるなんて
私の頭は夏の暑さに
だいぶやられているようだ

ドイツ語でトマトはトマーテ、トマーテン

トマーテンを早く言うと
トマーテ
トマッテにも聞こえるし

単数形のトマーテは
ずばりそのまま
トマッテにも聞こえる

ドイツ生活の影響が
変にでてしまった恥ずかしい
旅の思い出を書き記す

2020年8月21日、金曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



恥ずかしい出来事が、旅の思い出を忘れがたくするのかもしれない




2020/08/20

研妻哲学220・塾の待ち時間にドイツ文学。AI翻訳を考える

ドイツ文学との出会い

上の子が塾に行っている間
下の子を連れて
近所の図書館を訪れた

塾と言っても
遊び感覚で取り組んでいるようなので
長時間みっちり勉強するわけではない

お迎えの時間は
あっという間にやってくる

家に帰ってのんびりできるのが
理想ではあるけれど
まだそこまで集中力はもたないうえ
小学生にならないと
長い時間は通わせてもらえない

短い待ち時間に
幼い子供と
猛暑を避けられる場所として
図書館ほど最適なところはないと思う

そんなわけで
塾から図書館まで
夏の日差しを浴びながら
ベビーカーを押して歩く

下の子のスネの日焼けが気になる

日焼け止めを塗ってはいるものの
いくらカバーをかけても
足元にちょうど
日が当たってしまうので
靴下の上からズボンの裾の下までが
焼きおにぎり色になってしまう

いつものように
そんなことを考えながら
図書館にたどり着く

手を消毒したあと
まずはカウンターで本を返却する

そして新たに借りる本を選ぶのが
いつものお決まりの流れ

子供の本をいくつか選んだあと
ドイツ文学の棚に移動する

ゲーテをかわきりに
リルケにも触れてみることにした

プラハ生まれだけれど
ドイツ文学のくくりに入るようだ

リルケの詩集が
ドイツ語から日本語に
翻訳された文章を読んでいて
ふと思ったことがある

このような文学作品を
果たしてAIはどのように
訳すのだろうかと

ある種の芸術のような
言葉のゆらぎのかずかずを
ただ訳すだけにとどまらず
すっと心にささる配置に置き換えて
文学の世界観も維持する

という凄まじく
何とも言葉で表現できない
巧みな技に触れると
AIのことを考えずにはいられない

そのうち海外の文学作品も
色んな個性を持ったAI翻訳者が登場して
その中からお気に入りを
一人ひとりが選ぶ時代が来るのだろうか

2020年8月20日、木曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


訳者によって作品の色合いが変わるように、翻訳AIや管理者によって変わる部分が魅力になるかもしれない









・参考文献
書名:人生の知恵 リルケの言葉
訳編者:高安国世
出版社:彌生書房
発行年:1991年


・参考文献
書名:若き詩人への手紙 若き女性への手紙 リルケ
訳者:高安国世
出版社:新潮社
発行年:1989年











2020/08/19

研妻哲学219・日本からドイツへ国際郵便の準備

ドイツに国際郵便

お昼ごはんをおえて
下の子がお昼寝をはじめた

この日
上の子はお昼寝をしたくないと言う

そこで途中になっていた
お手紙を書くのはどうだろうと
提案したところ
ノリノリのわが子

送り先は
ドイツで大変お世話になった
お友達ファミリー

数週間前に
このご家族のお子さんから
わが子宛に
メッセージカードをもらっていた

お返事を書いてはいたけれど
空白も多く
宛先は未記入だった

書き途中になっていたメッセージに
絵や文字を増やし
シールも貼って見栄えをよくして
差出人の名前を誰が書くか
話し合って決めた

こうして
お返事のメッセージを
準備している間
下の子はぐっすりお昼寝していたので
ゆったりとした気持ちで
取り組むことができた

上の子は数日前に
テレビ電話でドイツと
繋がっていたせいか

そこでのやりとりを
思い出しながら
とても楽しそうに準備していた

そしてやっと
お手紙に絵や文字が賑やかすぎるくらい
たくさん入った封筒が完成

差出人の名前は子供が書き
宛先の住所は私が書いた

当時はわりとご近所に
住んでいたので
懐かしい住所を書きながら
久しぶりにドイツの空気を
吸ったような気分を味わった

本当はドイツからお手紙をもらう前
今年の春に
日本から送るつもりだった

ところが
新しいウイルスの登場により
すっかりタイミングを逃していた

春に文字を覚えて
夏は書ける文字が増えたので
春に送るよりも
夏の今、送る方が
お手紙の中身に深みがでているはず

こんなふうに
前向きに捉えることにした

2020年8月19日、水曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


見逃した機会は、熟すまで待つのもいいかもしれない






2020/08/18

研妻哲学218・老後の目標が決定した30代

30代から考える老後の目標

お盆が過ぎて
夫の夏休みがおわり
子供たちと過ごす
新しい日常が戻ってきた

この日はずっとステイホーム

部屋の中に
大きなテントひろげて
非日常を演出してみたり
家の中を掃除したり
子供の遊び相手をしたり
して過ごした

子供たちのお昼寝タイムは
束の間の休息時間

毎日あるわけではないけれど
家の中で家事や育児を
頑張ったご褒美のような時間

子供たちの寝息に
耳を傾けながら
ここぞとばかりに
読みかけの本をひろげた

この本は
以前から触れている
ドイツの文豪ゲーテについて
書かれたもの

読みすすめるうちに
とある文章が目にとまる

ゲーテの作品のひとつに
登場する老人を
表現した一文

それがまさに
私が求める理想の老人像だった

ゲーテは賢者という言葉を
使っているようだけれど
早速
自分の言葉に置き換えてみる

私が理想とするのは、
文学や芸術に国境がないように
国籍を問わず周りの人々の和を
支えるようなおばあちゃん

これに加えて19世紀の
オーストリアの精神分析家が
カフェで人々と語り合う時間を
大切にしていたように
対話を重ねるライフワークを
細々と続けてみたい

30代の夏に突如
老後の目標が決まった

2020年8月18日、火曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


人生100年時代の心構えは身近に転がっているのかもしれない








・参考文献
書名:ゲーテ 人と思想67
著者:星野慎一
出版社:清水書院
発行年:1981年、1990年






2020/08/17

研妻哲学217・夏休みクライマックスは近距離旅

近距離旅

わが家の短縮夏休みの
クライマックスは
家族で行った近距離の旅

旅といっても
独身の頃や
夫婦ふたりだけの旅行とは
大きく異なる

小さい子供を連れていると
ゆっくり食事することも
ゆっくりお土産を選ぶことも
なかなかできない

レストランで
ゆっくり食事がしたい

おしゃれなカフェで
のんびりお茶したい

お土産探しは
じっくり店内を見てから決めたい

ほつほつとそんな気持ちが
心を支配していきそうになる

やっぱり
そういう気持ちの存在は認める

けれども
いずれ今の状況を
懐かしく思う時が来るはず

こうした欲求は
子供が成長したあとの
お楽しみとして
とっとくことにした

海外からやっと
日本に帰ってくることができたのだから
なんの縁もゆかりもない土地でも
国内観光を楽しみたい

帰国直後は
何かと忙しくしていたので
ゆっくり観光できなかった

そんな背景もあり
今年の短縮夏休みクライマックスの
家族旅行では
近場の市内に一泊することにした

海外にいた頃に憧れた
和室の部屋を
旅の直前に予約

当日の朝は
朝食を自宅でゆっくり食べて
あと片付けをし
洗濯物を部屋干しにして
除湿機にタイマーをセット

マザーバッグやエコバッグの
代わりにしている
普段から使い慣れている
リュックサックに
家族全員の着替えを入れた

それをベビーカーの下に置き
上の子は本やおもちゃを
自分の小さなリュックに入れて
家を出発

「今夜は家に帰らなくていいんだっ」
と、はしゃぐわが子

感染症や熱中症対策をしつつ
まだ訪れたことがなかった
地元の商店街やお寺を
みてまわった

近場ゆえの
ゆるさが全体に余裕を生み
準備も気楽にできて
移動に時間がかからない

近距離旅は
子連れ旅行にぴったりだとわかった

こうして
夫の夏休みは幕を閉じ
妻の私が日中ひとりで
子供のお世話をする
夏休み後半が幕を開けた

家族旅行の思い出とともに生きる

2020年8月17日、月曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


縁やゆかりは自分たちの手でつくることもできるのかもしれない








2020/08/16

研妻哲学216・研究者夫と出会ったレストランで食事。思い出たっぷり

夫と出会った場所

はじめて出会ったのは
大学に通う学部生のとき

アルバイト先のレストランが
一緒だった

カジュアルなレストランと
高級レストランのちょうど間に
位置するような
おしゃれなレストラン

そのレストランで
夫がアルバイトを始めたのは
妻の私よりも遅かった

それにもかかわらず
当時の夫の仕事ぶりは
信頼できるものだった

そんな思い出いっぱいのレストランは
もう今は当時の場所に
存在しないらしい

大学を卒業して
就職してから
再び訪れることができずにいた

このレストランが
私たち夫婦の出発点ということも
忘れかけていた

けれども思いがけず
短縮夏休みの思い出として
選んだ旅先に
ちょうど同系列のレストランがあった

本店の高級レストランには
まだ一度も行けていないが
系列店の少しカジュアルよりの店舗は
アルバイトしていた当時の
店構えの面影が残っていた

懐かしい味に浸りたくなり
幼い子供たちと一緒に
消毒をしてマスクをしたまま入店

衛生面の理由からか
重ねて使用されているはずの
布でできたテーブルクロスはなく
代わりに消毒しやすい素材のクロスが
活躍していた

密を避けるため
座席にはかなり余裕があった

そのぶん下の子は動きたがる

食事はゆっくりできない覚悟で
コース料理ではなく
セットメニューや単品を注文して
食べ終えたらすぐにお会計

高速ランチだったけれど
やっぱり美味しい!

最初は気分がのらず
あまり食べたくないと
言っていた上の子も
美味しいからもっと食べると
言い出した

当時はまかないで食べていたので
かなり贅沢だったなと
今になってから思う

学生カップル時代の思い出の味が
家族の思い出の味になる日は近そうだ

今の家からさほど遠くない場所にある
このレストランは
感染症対策をしながら今日も営業中

お店のスタッフに感謝しつつ
また何かの機会に訪れようと心に決めた

2020年8月16日、日曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


夫婦の出発点を訪れるのもいいかもしれない




2020/08/15

研妻哲学215・短縮夏休み、前半と後半の大きな違い

折り返し地点の短縮夏休み

お盆をすぎると
短縮夏休みがいよいよ
折り返し地点をむかえる

わが家にとって、夏休みの
前半と後半の大きな違いは
夫が仕事を休んで
家にいるかどうか

子供も私も
夫の仕事が休みだと嬉しい

ここぞとばかりに
予定を立てたくなる

特に今年は
帰省できない分
自分たちでどう楽しく過ごすかを
考えてばかりいる

考えてばかりいては
それだけで連休が
過ぎてしまう

それくらい
祖父母に会えない時間を
どう過ごすかを考えていると
寂しさを帯びた海外生活が
頭をよぎる

そういった意味での
懐かしい感覚に包まれつつ
大きな枠での家族に
直接会えない夏休みの
折り返し地点が見えてきた

これは夫の夏休みがもうすぐ
おわってしまうことを
つげている

母親と子供だけで過ごす
祖父母が孫に触れ合えない
短縮夏休み後半が
もうすぐそこまで来ている

前半と後半の境目の今は
夏休みのクライマックス

2020年8月15日、土曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


夏休みも人生も、おわりがあるから深みが増すのかもしれない






2020/08/14

研妻哲学214・早く年取りたいと思う瞬間。素敵に年取る

素敵に年取る

最寄りのドラッグストアに
日用品を買いに行った

カゴはかさばる商品で満杯

レジでお会計のときは
スマホのアプリをいくつか開き
順番にポイントカードの
バーコードを
読み込んでもらうため
操作で気が焦る

クーポンもスマホで
表示させようと思うと
ワタワタする

最後はスマホで支払う
となると
レジでずっとスマホを
いじらなくてはならない

スマホの画面を
見せ終わると
ホッとする間もなく
鞄に急いでしまいこむ

その後
買った商品をエコバッグに
自分で詰め込むとなると
レジのうしろに並んでいる
他の人の視線を
ぴりぴりと感じる

そんなとき
レジのスタッフが
手慣れた手つきで
手際よく商品を
エコバッグに詰めてくれると
本当にありがたい

最後にレシートと一緒に
パンパンのエコバッグを
受けとるとき

「ありがとうございます」の
声が重なる

スタッフも私も
ほぼ同時の挨拶になる

こんなとき
私がもっと年をとっていたら
「ありがとう」とか
「たすかるわ」とか
「どうも」とか
短い言葉でお礼を言っても
年相応なのではないかと思う

短いお礼の言葉を
さり際にさり気なく
言ってみたい

今はまだ相手に失礼な印象を
与えてしまいそうなので
言えないけれど
年をとったら言ってみたい

年を取ったら
丁寧さよりも
自然で素朴な言葉が
今より似合うような気がする

どうせ取るなら
素敵に年を取りたい

2020年8月14日、金曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



素敵に年取る方法を考え始める年齢に制限はないかもしれない







2020/08/13

研妻哲学213・南国のスコールのような日本の大雨

南国のスコール

今から10年以上も前に
シンガポールを訪れた

まだ豪華ホテルが
建設される前

観光地をちょっとそれると
開発途中で
さら地だらけのシンガポール

活気に満ちた人々と
マーライオンが出迎えてくれた

旅の終盤に
案内人から
サイクリングをしてみないかと
提案を受けていた

どうにか断ったあと
1時間も経たないうちに
南国にありがちな
スコールの大雨にみまわれた

あまりに激しい雨だったので
サイクリングに
申し込まなくてよかったと
ほっとしたのを覚えている

最近の日本の大雨は
この時のスコールを思い出させる

特に昨日は都内でも
停電になるような
激しい雨だったらしいけれど

南国のスコール対策から
学べることがありそうな

2020年8月13日、木曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


10年あれば国が発展するように、対策も発展させるものなのかもしれない






2020/08/12

研妻哲学212・帰省自粛中の子供の遊びとプール

帰省自粛と家庭用プール

春の外出自粛中
子供の遊びのネタに困った私

室内に小さなプールをだして
おもちゃを入れて
遊ばせることにした

思った以上に好評で
遊び倒した結果
やぶけてしまった

最終的には
プールの底が抜けてしまい
というか
もう仕方なく
底をくり抜いて遊んだ

厚みのある底は
マットレスとして使用し

周りのふくらみ部分は
浮き輪のような状態

それ以来
新しいプールは買っていなかった

買ってもどうせすぐ
破けてしまうと思ったら
買う気が失せてくる

ところが
幼稚園が同じお母さんから
空気を入れるタイプではない
ペラペラのプールなら
そんなにすぐには
破けないと教えてもらった

今年のお盆は
帰省自粛中

祖父母に直接
会うこともできなければ
祖父母と一緒に
思いっきり遊ぶこともできない

短い夏休みの思い出作りに
わが子が仲良しのお友達の家に
遊びに行かせてもらい
庭先に大きなプールをだしてもらった

そこで楽しそうに遊ぶわが子

やっぱり新しく
ビニールプールを買おうと
心にきめた

2020年8月12日、水曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


子供が言葉にせず欲するモノは、観察することでみえてくるのかもしれない






2020/08/11

研妻哲学211・コロナ禍の水族館で

新型コロナと水族館

ウイルスとの戦いが続く中
最寄りの水族館を
久しぶりに訪れた

年間パスポートを持っているのに
2020年になってから行くのは
このときが初めて

コロナ禍の水族館は
もう全部見せます!
という意気込みが伝わってくる
設営状態に様変わりしていた

以前は裏と表が
はっきり
くっきり
わかれて
境界線が目立っていた水族館

コロナ禍の現在は
表の中に
裏がうまく組み込まれていた

訪れた人々は
相変わらず
表を見ているのだけれど
その中に
堂々とした裏の一部分が紛れ込み
それが主役級の役割を
果たしているように感じた

そのため
隠さずに
さらけだされた裏側の価値を
存分に楽しむことができた

これまでは本の世界だけだと
思っていた生き物の
臨場感あふれる成長過程や
バックヤードで勇ましく働く
飼育員たちの姿を
間近に感じることができたのだ

最近は裏の部分を
堂々と表現する人や場所が
私たちの心を掴む傾向にあるようだ

そんな共通点を持つアーティストが
ふと思い出される

少し前までは
歌姫が自ら作詞をした
楽曲を発表しても
実体験をもとにしていないと
伝えられることが多かった

ところが最近は
これは過去の体験にもとずいた曲であると
すごく自然に
爽快に認める発言をする歌手が
人気なようである

ここに水族館に似た現象が
垣間見られる

裏の顔も
自然体の一部として
素直に認める姿勢

だんだん裏表が
統合していくような
感覚が残る

2020年8月11日、火曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学


コロナ禍では脇役が主役になっているかもしれない







2020/08/10

研妻哲学210・恐竜のような研究者夫と、象のような研妻

夫と恐竜と象

恐竜ティラノサウルスが
進化する過程で
巨大になったのは
一説によると
よく噛まずに食べたから

それとは対象的に
動物園で会える
ぞうさんは
よく噛んで食べるので
今の大きさになったと言われている

あまり噛まずに食べて
大きくなったティラノサウルス

よく噛んで食べて
大きさを維持している象

まるで私たち夫婦のようでもある

あまり噛まない夫と
よく噛む妻

食事の時間には
雲泥の差がある

数年前に
乳幼児を連れて
ドイツから日本まで
飛行機で移動したとき

ルフトハンザの機内で
食事を胃袋へ流し込んだ夫

私は窓際の席に座り
全然食べ終わりそうにない
食事を目の前にして
身動きがとれずにいた

すると突然
泣きだしたわが子

食べ終えていた夫は
すぐさま間髪いれずに
立ち上がり
バシネットから赤子をとりあげ
あやし始めた

そんな様子を見ていた
フライトアテンダントの
ドイツ人女性スタッフが
微笑みながら夫に
"I like you"と声をかけた

この光景を
機内食を噛みながら
目の当たりにした

どうやら夫はイクメンのようだ

こういった育児への姿勢に
これまで何回も助けられた

あとはよく噛んで
食事をすることで
食道を大事にしてくれれば
文句なしの夏

2020年8月10日、月曜祝日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


育児の苦労はひとりで背負うものではないかもしれない








2020/08/09

研妻哲学209・海外研究者夫に帯同する妻の孤独と喪失感

海外帯同生活の孤独

現地で夫と一緒に暮らしていても
ひとりぼっちの孤独から
逃げきることはできなかった

家族がいても
拭いきれない喪失感と戦う日々

研究者夫が海外修行をしている間
妻はひとり置いてけぼり

ヨーロッパの照明の暗さと
見事に調和するような精神状態で
薄暗い部屋に取り残された

それはまるで
修行僧のような
外界から遮断された生活

定年退職したかのような
社会全体からある一定の
距離を置かれた生活

現地の言葉を
頭に叩き込みたくても
気力が追いつかない

何年も経った今なら
いずれ来るべき生活が
早く訪れただけだとわかる

たとえば
夢中で育児をしてきて
子供の手が離れたとき
自分をふと振り返る瞬間

あるいは
仕事に復帰できたとして
定年退職の年齢にさしかかり
第2の人生を見つめるとき

そういった人生の転機には
おそらく喪失感や孤独感を覚えるだろう

海外帯同で得た
喪失感や孤独感は
どのみち割けては通れない

学校や会社、地域社会で行われる
恒例儀式のような
日常の通過点

孤独と対峙し
自分の内面を深く探る時間は
誰にでもいつかやってくる

新型コロナウイルスによる
デジタル化についても
いずれ来るべきものが来たと
言われている

喪失感や孤独に限らず
新しいウイルスにいたるまで
予期せぬ突然の来訪者は
強いインパクトを残す

残された痛みを帯びた現実と共に
どう過ごすかに
人間性がにじみでてくる

そこに対処法があるなら
ただただ
自分の道を進むのみ

過去を嘆き、未来を憂いていては
時間がいくらあっても足りないと
やがて気づく

現在ほど大切なものはないと
先人が教えてくれる

2020年8月9日、日曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


強烈な来訪者が残していった現在と、ひたすら向き合っていくしかないのかもしれない






2020/08/08

研妻哲学208・幼稚園の面談記録。日本とドイツ

幼稚園の面談

つい先日、日本の
幼稚園の保護者面談があった

夏の日差しに寄り添うに
ベビーカーをおしながら
幼稚園へ向かった

降園時間のあと
上の子は保育室に残り
下の子を連れて
手を消毒したあと
保育室に入った

先生が子供たちは
おもちゃで遊んで待っていられるように
バタバタと準備してくれる

それまで大勢の子供たちが
活発に動きまわっていた部屋は
一気に静けさをとり戻した

コロナ禍では
親が保育室へ入ることは
基本的にNGとされているため
部屋の中へ入るのは
とても久しぶり

そんな久しぶりの感覚を
味わう間もなく
先生との面談はスタート

まず最初に
最近不安なことがあるかどうか
確認された

その次に先生からみた
子供の様子を聞くことができた

ドイツの幼稚園には
担任の先生はいなかったし
ゆっくりじっくりと
話をする面談は何年通っても
1回だけだった

そのたった1回の面談に向けて
幼稚園側と家庭でそれぞれ
資料を準備した

1回だけなので
お互い真剣になる

子供の性格や好き嫌いなど
事細かにびっしりと
ドイツ語で書かれた用紙をもらい

当日はその資料をもとに
面談が進んでいく

1回勝負

面談の最中
わが子が外で遊んでいるのを横目に
多少の緊張感に包まれていた

それを思い返すと
日本の面談は
ずいぶん和やかな雰囲気に包まれていた

悪い事はほとんど言われない

まさに至れり尽くせり

持ち物が細かいだけでなく
面談まで回数がきっちり
確保されていることに
感謝の念がわいてくる

もちろんドイツの幼稚園も
ありがたかった

最も大きな違いは
ドイツの幼稚園は共働き世帯が多く
日本の幼稚園はやや専業主婦の家庭が
多いような点だと思う

幼稚園側が至れり尽くせりだと
保護者にもそれなりの関わりが
求められるようだ

面談が年に数回ある日本の幼稚園と
何年通っても1度きりのドイツ

両方ちがって、両方よさそうだ

2020年8月8日、土曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


土地に根付いた文化に一度は染まってみてもいいかもしれない





2020/08/07

研妻哲学207・子供の頃、断定的な先生が信頼できなかった話

子供時代の先生

まだ幼い子供だった頃

断定的な先生の言葉に
ひそやかな疑問を抱いていた
時期があった

肯定的な話ならまだしも
可能性はゼロではない話に
きっぱりと完全否定する先生がいると
態度には出さないものの
心の内側は沈んでいった

もちろんこういった
たぐいの先生は少数だった

子供に疑問を抱かせる
といった面においては
この先生方の存在意義は
少数ではあるけれども際立ってくる

あれから月日が流れ
大人になり
子を授かり
育児書などに触れてみると
当時の先生方が断定的だった理由が
少し見えてくるようになった

どうやら幼い子供には
白黒はっきりさせてあげたほうが良いと
書いてある育児書が存在するとわかった

おそらく当時の先生も
「子供」の私のために
白黒はっきりさせてくれたのだろうと
推測することもできる

つまり
育児書との付き合いには
子供によって
相性があることがうかがえる

最も無難で
正解があるとするなら
それに最も近いような姿勢はきっと
「子供を子供扱いしないこと」ではなかろうか

可能性を全否定する先生には
体の側面にはださないものの
内側の奥の方では
ふつふつした感情が
火山のマグマのようにわいたこともあった

可能性を否定する人と
可能性を否定しない人

信頼に値するのはおそらく後者

子供の頃から可能性に
いささかこだわりのある子
だったのかもしれない

大人になった今も
研究者夫を含め
人生を可能性に賭けるような
生活を送っている

2020年8月7日、金曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


信頼できる相手かどうかの判断軸に、可能性の扱いを加えてもいいかもしれない






2020/08/06

研妻哲学206・素朴な研究者夫との日常から生まれる人生観

哲学というより人生観

ドイツの文豪ゲーテについて
理解を深めるため
彼の書物と向き合っていくことを
ここに宣言したばかり

早速ひとつ気にかかることを
見つけてしまった

ゲーテは哲学にかぶれないように
忠告を残しているようだ

これを機に
研妻哲学を改め
研妻精神に戻すか
はたまた新たに研妻流儀として
更新していこうではないかと
ひらめいた

私は哲学から色んなことを学んだので
哲学を批判する気は一切ない

けれどもここは一度
先人ゲーテに素直に従い
哲学からちょっと距離を
置いてみようという気になった

そこでゲーテの生きた時代

ナポレオンが活躍した時代を
胸に思い描いてみた

きっと今のように
哲学がひろく大きく
ゆらいでいない時代だったのではないかと
推測される

原文を読んだらはっきりするかもしれないが
ゲーテの言う哲学とは
弁証法などが登場する
学問上の難しい哲学のことであって
一般の主婦の研妻哲学は到底
そこに含まれるたぐいではないはず

ヘーゲルの足もとにも及ばない
一般人の私がなんとささやき続けようと
彼の示す哲学のたぐいには
及ばないだろうと思われる

ゆえにこうして今日も
素朴な研究者夫との日常から
生まれる人生観を
研妻哲学として綴っている

2020年8月6日、木曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


時代が変わると言葉のゆらぎも変わるのかもしれない






・参考文献
書名:ゲーテに学ぶ賢者の知恵
著者:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
編著者:適菜収
出版社:メトロポリタンプレス
発行年:2010年






2020/08/05

研妻哲学205・ベルリンに集う人々から、安全な奴隷と危険な自由を考える

ベルリンの人々

世界はコロナ禍

たまたまドイツのニュース映像が
目に入った

ネットのニュース映像を
テレビの画面に映していたら
ベルリンの様子が流れてきた

ベルリンの中心地

ウンター・デン・リンデンと
書かれた道路標識

ブランデンブルク門周辺

そして
マスクをしない人々が
大勢、至近距離で
比較的穏やかに集まっている

働く警察官の後ろ姿も
共に映し出された

ドイツ生活で張りつめていた
私の心を癒やしてくれた
ベルリンの街並みを
こんなかたちで再び
眺めることになるとは
全く予想していなかった

このニュース動画を
日本の自宅で
小さい子供たちのお世話をしながら
横目で追いかけたので
解釈に誤謬が交じっている
可能性は大いにあるけれど

おそらく一言であらわすと

「安全な奴隷より、危険な自由を求む」

という人々の強い思いが
絡み合った結果だろうと
推測できる

日本のメディアでは
見かけないニュース

あくまでも個人目線で
思ったことを書く

ドイツと日本の
決定的な違いのひとつに
宗教的背景が挙げられる

言ってみれば
ドイツはもともとの生活に
いささか宗教的な制限が存在する

たとえば
日曜日はスーパーが閉まるため
食料品の買い物に制限があるとも言える

ほかには
静寂にする時間帯が
決められている地域も多いため
掃除機や洗濯機の使用にも制限がある

仕事を休む義務をきちんと守るため
もともと休日が多い
ということは、仕事時間にも
制限があることになる

飲食店の営業にも
たしか細かい決まりや制限が
あったように記憶している

一見なんともないように見られがちな
これらの制限は
実際に生活してみると
思った以上に心を圧迫してくる

ましてや
日本の自由な生活を
知っている日本人にとっては
慣れるまで時間がかかる

実際に日本を旅したドイツの知人は
日曜日も買い物が楽しめて
日本は自由だと言っていた

今回のベルリンのニュースは
自由な国の日本からは
想像できないような人々の
嘆きでもあるように感じる

一方で、
ドイツで暮らしていた頃の
いくぶん制限のある暮らしを
思い返すと
今回ベルリンに集まった人々の
気持ちを理解できる部分も
多少うきでてくる

コロナ禍以前から
制限に囲まれた
いわば窮屈な生活をしていたら、
新たに制限が追加された生活を
さらに続けることは耐え難く
危険と隣合わせでも
自由を求めたくなる気持ちが
わきでてくるのだろうと想像がつく

2020年8月5日、水曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


人類の手によって作られた制限が、一周まわって人々の首に手をかけるようになったのかもしれない





2020/08/04

研妻哲学204・ついに育児仲間が現れる?

育児仲間

新しい土地に
引っ越してすぐに
育児仲間はできない

今年のウイルス禍で
新たに親しくなるのは
至難の業でもある

そんな中
奇跡的に
幼稚園が同じお母さんと
一緒に
子育て支援センターに
行くことになった

上の子同士が
幼稚園で遊んでいる間
お互い下の子を連れて
支援センターで
遊ばせるという約束

当日はなんと
そのお母さんの車で
送り迎えしてくれるという
なんとも親切な提案までもらい

ちゃっかりお世話になってしまった

梅雨があけて
夏の日差しも強さをましてきた今
歩かなくていいのは
最高のプレゼント

こういうのを育児仲間というのだろうか

まだ1度きりのこと

はっきりとは言えないけれど
人に親切にするのは
やっぱりいいものだなと
相手の立場で感じる

2020年8月4日、火曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


プレゼントはモノである必要はないのかもしれない


親切のプレゼントは最高かもしれない







2020/08/03

研妻哲学203・あと何年、あと何日、あと何時間を考えると

有限な時間

あと何年、あと何日、あと何時間
というのは
わりとなんにでも
当てはまる

身近なところで例えると
今の仕事は
あと何年、あと何日、あと何時間
続けられるだろうか
とか

ちょっと視点をずらすと
人類は
あと何年、あと何日、あと何時間
生存するのだろうか
とか

モノの場合は
いま使っているこのコップは
あと何年、あと何日、あと何時間
使えるのだろうか
とか

私の細胞は
とか

免疫機能は
とか

挙げだしたら
キリがない

なんにでも言える気がする

それなのに
日常生活では
すっかり忘れて過ごすことが多い

忘れずに過ごしている人は
心に何かイチモツを抱えている
可能性があるとさえ言われる

一体どちらが
正しいのか
良いのか
はっきり言うことはできない

ひとつ言えるとしたら
時間には限りがあることを
意識していると
一瞬の重みが変わってくる
ということ

一瞬が積み重なる
毎日の捉え方が
変わってくる

そんな2020年8月3日、月曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


一瞬の重みを感じるのもいいかもしれない






2020/08/02

研妻哲学202・ひ孫に何が残せるか、孫もいない今から考える理由

祖父母の影響

幼い頃の思い出は
家族旅行

祖父母を含めた
家族旅行に
親戚が加わることもあり
自家用ワゴン車で
国内をあちこちまわった

家族と親族という
信頼のおける大人に囲まれ
もはや空気のような
大きな安心感に包まれて
新しい土地を訪れ
新しいモノに触れる
楽しさを味わった

旅先ではよく
祖父母がちょっとした記念品、
お土産を
買ってくれた

高価なものではないけれど
私が気に入った綺麗な石や
ぬいぐるみ
おはじきやビー玉
小さな書道の道具
和柄のがま口ケース
など

今でも手元に残っているものが
わりと多いことに
最近ふと気がついた

そして祖父母が残してくれた
今も残る
思い出のモノたちは
ひ孫にあたるわが子が
使っている

私が小学生の頃に
祖父に
買ってもらった
恐竜のぬいぐるみで
今はひ孫が遊んでいる

私が小さい頃に
買ってもらったモノで
水やお湯につけると
タオルになるという
卵型のアイテムを
卵のかたちから
タオルのかたちにしたのは
私ではなくわが子
ひ孫だ

その事実を祖父は知らない

もしかしたら
空から見ているのかもしれないけれど
きっと誰にもわからない

自分が孫にあげたモノが
将来ひ孫のおもちゃになるかもしれない

孫もひ孫もできるかさえも
わからない今から考えるのは
ちょっとおかしいけれど

気がついたら
私の体も
おばあちゃんに
なっているかもしれないわけで

会えるかどうかもわからない
未来人について考えると
楽しみがどんどん続いていく

実際にどんな未来がくるにせよ
今この瞬間、考える
楽しみがあるだけで
もう十分な
2020年8月2日、日曜日の記録




*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*



未来人は希望をくれるのかもしれない






2020/08/01

研妻哲学201・短縮夏休みがちらほら開始で、働く高齢者に遭遇

短縮夏休みスタート

街がだんだん
夏休みモードになってきた

近隣の市は
どうやら夏休みに突入した模様

幼稚園も午前中で終わったり
小学校も終業式だったりで
今日から夏休みという地域が多いようだ

科学館を訪れる親子連れも
増えてきた

つい先日、
上の子を幼稚園に預けて
下の子と科学館に行った帰りに
駅のエレベーターに乗った

そのとき
たまたま一緒に乗っていた
おばあさんが、
はにかみながらも
何やら心配そうな表情で
私に話しかけてくれた

「これアベノマスクなの、大丈夫かしら」

すみませんといった一声もなく
あまりに唐突な話題に
多少驚きつつも
「全然わかりませんでした、大丈夫ですよ」
と返した

実際のところ、
言われなければ気づかないような
真っ白で本当によくある
普通の形のマスクだった

そのおばあさんは続けて
仕事のときは他のマスクをつけるけれど
今は合間だからこれなの
と、教えてくれた

短いエレベーターの中での出来事

身だしなみに気をつけている
素敵なおばあさんという
第一印象とともに

一体どんな仕事をしているのだろうかと
気になった

気になった頃には
残念ながら
エレベーターのドアが開いてしまい
聞けなかったけれど

おばあさんになっても
働くことが
当たり前な時代なのかと
思わせる出来事でもあった

研究者夫の海外修行時代に
私の心はすっかり
おばあちゃんになったと感じたけれど

それからというもの
日々の生活において
「おばあちゃん」がひとつの
キーワードになっている

自分がおばあちゃんになったら
一体どんな仕事をしているかなと
未来に思いをはせる

2020年8月1日、土曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


働く高齢者から学ぶことがたくさんあるかもしれない








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