イタリア人と日本人の会話
欧州在住のイタリア人と
話す機会があった
こんな時期なのでもちろん
直接会ってはいない
インターネットを通じて会話をした
話題は仕事だけでなく、日常生活にも
及んだが、今世間をざわつかせている
非日常については一切触れなかった
正しくは、触れられなかった
話題にできなかったと
言うべきなのかもしれない
お互いがお互いの国の状況について
ある程度ニュースをみて知っている中で
こちら側から切り出すこと
話を深く聴くことが
時には鋭い刃になることを知っているから
私の方から話題にすることはなかった
聞くことによって
相手を傷つけたくなかった
もしかしたら
既に傷ついているかもしれない
相手の心に、さらに刃をかざして
よくない方向に流れることを
避けたかった
相手側からウイルスの話題を
切り出されたら
聞くための心の準備は
していたつもりだった
けれども、結局その話題に
ならなかったことで
どこか安堵している自分がいることを
認めなければならない
相手を思いやっているつもりが
自分を大事にしていただけなのかと
自分を疑いたくなる瞬間であったが
人の話を冷静に聴くには
自分にある程度余裕が
ある方がいいのは事実
洗練されたホスピタリティで
お客様をもてなす
一流のサービスパーソンも
そのホスピタリティを実現するには
自分にある程度余裕が必要だという
ふてくされたホテリエから
おもてなしの心を感じるお客様は
おそらくいないだろう
お客様を笑顔にするのは
ホテリエの心から生まれる
笑顔だったりする
こんな時期に心に余裕を持つのは
容易ではないけれど
自分に近い、親しい相手ほど
冷静に話を聴くことが難しくなるもの
大切な相手ほど、接する際に
心に適度なスペースを
確保しておくことを心掛けたい
自分を戒める言葉としても繰り返すが
大変な時こそ、大切な人と、
近いけど絶妙な距離がある状態を
意識して過ごしたい
そのすごく微妙な長さの
心の小道を、相手を思いやる気持ちが
歩いて来てくれるはず
多くの人々に癒しを与え続けている絵画も
近すぎると何が描いてあるのか
よくわからないもの
相手のことがわからなくなって
心がざわつき始めたら
それだけ心を許した
仲の良い相手ともいえるし
近すぎる合図とも捉えられる
思いやる気持ちが歩いて来られるように
心の小道を封鎖しないよう
気をつけていきたい
国境は封鎖しても、心は封鎖しない
*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*
距離が近すぎると、相手のことがわからなくなってしまうのかもしれない
国境が塞がれても、心を塞ぐ必要はないのかもしれない