日本の村社会のウチ側に入らなくても大丈夫
「適応しない」のも適応、その意味
適応の前に、理解が必要かもしれない
その上で、適応しないのも適応なのだと
そう感じるようになった背景を
ちょっとだけ書き記していく
本帰国や一時帰国を含めて
海外に一定期間以上
住んでいて
日本に引っ越してくる人や
日本人以外のアイデンティティも
持ち合わせている国際人や
なんらかの事情で
日本に移り住んできた外国の人や
もともとずっと日本に住んでいながら
転校や転勤、転職などで
国内でも心理的には遠い場所へ
引っ越すことになった人など
ある種の
「ソト側」から日本の村社会特有の
「ウチ側」へ
入っていかねばならない状況を
経験した人ならば
もしかしたら一度や二度くらい
感じたことがあるかもしれない
味方がいないように感じられる
「あの空気感」
いわゆる同調圧力がつくりだす
目に見えない、いびつな空間
経験上、そういった排他的な
内向きグループの輪の数は
それほど多くはないものであり
大多数のグループは
新参者にも友好的だ
けれどもその少数の刃が太く
ときにぐさっと深く刺さると
周りの多数派の友好的な好意さえも
かすんで見えることがある
これはたとえば
敵意なのかと感じられるような
排他的な視線によって注がれる
無関心を装った姿勢や態度
に、置き換えられるかもしれない
海外にいても
外からやってきた日本人(アジア人)
というだけで
排他的な視線を感じる場面は
少なくなかった
そのため、しばらくの間
こういった問題に
内面から静かに向き合ってきた部分が
私の中にあることだけは確実に言える
その結果、
そういった姿勢を生み出す源は
おそらく
経済的な悩みがある状況や
受けてきた/受けなかった教育
によってなされるものと
ごく限られた経験や知識から
理解するに至った
集団でいることで
自らを防衛しているような輪は
実際の輪の大きさよりも、実体は
はるかに小さいものだと
そもそも根底に
自己肯定感にも繋がるような
自信の低下や
不安感が渦巻いているのが
源泉なのだと
これはアラビア語圏の人たちが
無神論者に向ける視線に
似ているように思えてならない
非難や批判をする気は一切ない
相手との相違点に
そっと目を細めるだけ
さらには、稀に
友好的グループにいた人が
少数の排他的グループへ移ることがある
これは不安感が増した証
たいてい
そのタイミングは予測できることが多く
そうでなくても
あとから原因が検討つく場合もある
直前にそういった出来事が起こる
というのが理由である
それでも
こちら側にできることといえば
未熟者の私には
敬意を態度で伝え続けることくらい
つまるところ
どこへいっても堂々と
自分らしくいればいい
けれども、それが
他の苦しみを生んでしまうのなら
目立たないように生活するのも
その瞬間にとっては
賢い選択肢のひとつなのかもしれない
堂々と進むか
目立たず過ごすか
新しい道を歩むか
すべて自分できめることだけど
外側と内側を繋げる
ある種の希望のようなモノがあると学んだ
そんな
水と油のような関係を繋げるのは
普遍的なモノであるらしい
このブログがその役割の一端を
担えるようになれば
大変喜ばしいことだと
未来のおばあちゃんが感じている
2020年12月9日、水曜日の記録