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2020/05/06

【研妻哲学114】宣言延長で問われる存在価値。対話の栄養不足

緊急事態宣言の最終日となるはずだった
2020年5月6日
現実は甘くなかった

特定警戒都道府県に住んでいるわが家は
宣言延長が当然のことのような状況

まだ宣言がだされる前、
ある試験の受験を申込んでいたけれど
日程が近づくにつれてウイルスの影響が
色濃くなり、本来なら返金されない
受験料も今回は特別に
戻ってくるということでキャンセルした

次はいつ受けられるかわからない事態になり
本当に必要な受験だったのか
今一度、試験の価値が問われている

これはよく言えば「洗練」
少しよくない言い方だと「淘汰」である

そんな言葉遊びはほどほどに
波はあといくつくるか
わからないけれど、ひとまず収束後に
向けて準備するときが来たように思う

未来を見据え、未来を生きる子供と
一緒に学べるものと出会えたら
自粛生活の鮮やかさが増すだろう

たくさん学んだ子供は将来
多くの役割を担っていく
役を演じるとも捉えられる

よく人は演じて生きていると
言われている
これは役者に限らない

たとえば職業であれば
警察官は警察官役を演じ、
看護師は看護師役を演じ、
店員は店員役を演じて働くことで
社会は成り立っている

家庭であれば最初は子供として過ごし
成長して親になれば親を演じる

役割の数はひとつに絞るより
複数ある方が健全な精神を保ちやすい
ことは前にも触れた通りであるが 
演じる時間が長くなるほど
演じる必要のないふとした瞬間の
素の部分の重みが増してくる

演じるためと、素の自分のため
その両方にバランスよく栄養を
行き渡らせるのは案外難しいかもしれない
どちらも対話という食べ物を咀嚼するから

子供が健やかに成長するには親だけでなく
祖父母や学校、地域社会の人たちとの
対話も欠かせないと考えているが
自粛生活でその機会が奪われ
対話による栄養が不足しがち

且つその対話の栄養は体と同じように
噛むだけでは吸収されないのである



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


人は演じて生きる、生き物なのかもしれない





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