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2020/06/17

研妻哲学156・どこへ行ってもよそ者の私。外側と内側の違い(日本と海外)

よそ者としての振る舞い

これは海外で帯同生活を始めたときから
一種の生活上のテーマとなっている

なぜなら、住む場所が目まぐるしく
変わり、どこへ行っても
私はよそ者なのだ

今思えば、
海外にいた頃はまだましだった

状況を飲み込むのは簡単だった

同じ土地で暮らしていても
そもそも国や人種が違うという
前提があったおかげで
おや?と思う事があっても
正しいかはさておき、
原因をそれらのせいにして
心をなだめることができた

そしてなんといっても
集団ではなく、個人を大事に生活できた

けれども日本で初めての育児が
始まると、周りは同じ日本人という
前提に甘えすぎて、
自分がよそ者としての境界線が
時折わからなくなってしまう

そしてよそ者であることを
忘れてうっかり内側へ入り込むと
ばつのわるい出来事が起こるもの

いい意味でも、わるい意味でも
そんな気がしている

特に海外の個人重視の環境から
日本の集団重視の環境へ移り住むと
境界線の引き方が非常に難しい

海外では個人として振る舞い
周りの人はほぼ全員外側の
人間で、内側の人間は家族だけだと
認識できるけれど、
日本では外側にいても集団の中の
ひとりとして振る舞い
家族以外にも、外側の中で
内輪グループという
内側を形成している人がいる

そしてその形成されている
複数の内輪グループの境界線は
非常に見えにくい

時には重なっていることもある

注意深く観察していたら完全に
変な人の扱いを受けそうなので
それはできない

つまり
あくまでもよそ者として外側を
歩いているつもりでも
ふとした瞬間に、誰かの内側、
内輪グループに片足を
踏み込んでしまうことがあるのだ

海外ではどこまで行っても外側で
人目を気にせず済んでいたのに
日本ではちょっと歩くと
誰かの内側に入り込んでしまうため
人目が気になって仕方ない

そして内側と見せかけて
外側ということもよくあることだと
思うし、その逆もあるように感じる

日本特有の集団意識のある中で、
小さな内輪グループの存在は
避けて通れない

その既に形成されている内側へ
入ろうと思ったら、したでにでる
方法が一般的であるけれど

そうすると距離が近すぎて
周りの全体像や、
いいところが見えにくくなることもある

となると、日本の場合は
内輪グループと適切な間隔を保ちつつ
外側でしなやかに生きていく
という道がひらけてくるように思う

最近はこれがよそ者が居心地よく
暮らす秘訣のような気がしてならない
2020年6月17日、水曜日の記録



*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*


よそ者として経験することにも、何か意味があるかもしれない






・参考文献
書名:河合隼雄のカウンセリング講座
著者:河合隼雄
出版社:創元社
発行年:2000年



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