いずれ皆が先人となる
英語学習者が低年齢化する昨今
少しの間だけ目を閉じて
まだ自分が生まれる前の日本に
想いをはせてみる
そうすると海外の言葉や学問を
一生懸命に日本語に翻訳している
先人たちの後ろ姿が浮かんでくる
哲学であれば、ギリシャ語やドイツ語を
昔の日本人たちが、未来の私たちのために
日本語という母国語で学べるよう
言葉を丁寧に置き換える作業をしている
翻訳中の先人に後ろから声をかけて
インタビューをすることができたら
どんなにいいだろう
世界的にみても
母国語で様々な教育が受けられる国は
限られている
そんな状況の中
英語学習を推し進める流れにあることを
時代の逆行だと表現する人もいる
仮にそうであったとしても
この流れを止めるのか
この流れにのるのかは
その人自身が判断することといえる
訳された言葉も
正確な翻訳ではないと
言い出す人がでてくるものだが
その「正確な翻訳とは」一体何をもって
そう呼ぶのかという
定義から見直さなければならない
なぜなら正確な翻訳の認識は
人によって異なるものであるし
正確でないとしたら
自然な言い回しの翻訳になっているか
どうかというのも
議論されがちだけれど
いずれにおいても
批判の対象ではないだろう
人は皆、異なる感覚器を
持っているので、同じ言葉をきいても
その受け止め方は
異なっていて当たり前のはず
いずれ皆が先人となる
故人の概念は変化するかもしれないが
これだけは確実にいえる
2020年6月9日、火曜日の記録
*淡々と現実を受け止める、研妻哲学*
どうせなるなら、感謝されるような
先人を目指すといいのかもしれない
・参考文献
書名:日本語の哲学へ
著者:長谷川三千子
出版社:ちくま新書
発行年:2010年