研妻的人生100年時代の過ごし方
短距離走か長距離走か
はじめての出産時
「この子は100年生きる」と
現地の産院で言われてから数年が経った
当時はまだ「人生100年時代」という言葉は
それほど広まっていなかった(ように記憶している)
(日本にいたら、もっと耳にしていたのかも)
あれから数年が経ち
いよいよ人生100年時代が到来
ここまで寿命が延びると
どうやら終身雇用時代とは違うなと
感覚的に感じるものがある
たとえば
「大企業に勤め続けて
それまでは役職もあり大勢の人と働いていたけれど
定年退職したら周りに人がいなくなった」
なんていうちょっぴり寂しい老後になる
可能性もある
その一方で
「中小企業や個人経営で細々と食いつなぎ
これといって目立った仕事はしてこなかったけれど
地域に根差した商売を生涯現役で続けることで
常に大勢の人に囲まれて晩年を過ごす」
このようなケースも多々ある
大企業で重圧を受けながら
人生のある一定期間を仕事にあてて
老後の過ごし方を模索する道もあれば
中小企業や個人で
ライフステージが変わっても続けられるような
趣味感覚で取り組める仕事を
老後も続けていく道もある
(最近は老後の定義も曖昧だけど)
もはやどっちがいいとは言い切れない
案外どちらも似ているような気がする
しいていえば
短距離走か長距離走かの違い
人に出会うとき
その人の人生のごく一部しか知りえない
隣の芝生が青いのは
一部分しか見えてない証拠なのだろう
人生の最初から最後までをみたときに
何を感じて、どう思うか
なかなかそこまで付き合える人は
人生の中でもそう多くはない
つまりは
人生100年時代の人間関係において
付き合う人の人生の一部を切り取るのではなく
長い目でみていきたい
という私的価値観
社会的地位に左右されず、
長期的に相手の役に立てるような存在になることが
個人的な目標といえるかもしれない
そこにはきっと
肩書きや仕事の大きさは関係ない
あるのは
ひとりの人間対人間の相性
個人対個人
くっついたり離れたり、
集合のあり方がライフステージで変わる度に
アイデンティティは更新される
どんどんパーソナライズされていくのは
インターネットの世界だけではないみたい